2018.9.22|アシスタント日記(狩野)

動かぬ電車。それはまるで停滞した私の気持ちのようだ。アシスタント最後の日を終え、なんとも言えない気持ちになっている。達成感があるわけでもなく、皆との別れに悲しんでいるわけでもない。ただそこには寂寥感がある。何かが足りない。私はずっと足りない何かを追いかけている。1年前の私はそれが「写真」だと思った。だからこそ、写真の道を目指そうと思った。

しかし1年経った今の状況を見てみると、それは違ったようだ。

きっと、この世には2種類の人間がいて、「写真を撮ること自体が好きでたまらない人間」と「自分の好きな対象を撮ることが好きでたまらない人間」だ(ずいぶんいい加減な分け方だ)。私は後者である。後者は自分の興味の持てない対象を撮ることができない。この1年ではっきりと自覚した。それはつまり、青山さんが常におっしゃっている「カメラマン」と「写真家」との違いに似ている。

私は自分が好きな対象だけを撮っていたいし、自分の中にある表現されることを待っているこの気持ちを写真を通じて表現したい。と言いつつ、実のところ最近はあまりカメラに触れておらず、それらはまったく実現できていない状況だ。

私は今、カメラを持つことをやめてしまった人間だ。何が私をそうさせたのか。それはやはり、寂寥感だろう。この1年で私は三度の別れを経験した。どの別れも耐え難いものだった。それを経験するたび、カメラを握る力が弱まっていった。心も疲弊して、ついにはそれ自体が私の手から滑り落ちた。いや、離れていったと述べたほうが正しいかもしれない。こんな気力のない人間に握られたくないと、私の元から逃げたのだろう。

それでいいのか? それでいいのか、私。「つらい時こそ前を向け」だろう? 昔の自分ならそう言って、自分を鼓舞し、何度倒れても立ち上がろうとしただろう。だが、今の私は昔の私とは違う。私はずいぶんと苦しんできたようなので、自分をいじめるのはもうやめにしたい。いや、わからない。

今の私にはわからない。自分がわからない。ここまでだらだらと自分について文章を書いてきたが、自分のことなどわからない。これまでの文章、すべて私の誤認識かもしれない。確かなものなんて何もない不確かな世界をわれわれは生きているのだ。

「死ぬ」と言った10秒後には「やっぱり、生きる」などと言ってみたり、人の気持ちなんてコロコロと変わる。私の心もすでに変わり始めている。「電車の中で文章を書いていたら、酔ってきたからもうそろそろ書くのはやめよう」だ。

最初は書く気満々で紙とペンを取ったのに、もうばててしまった。人間だからしょうがないか。人の心はうつろいやすい。だけれども、もし絶対に変わることのない、不変の心を持っている人間がいるならば、私は尊敬してやまないだろう。

もうそろそろ高崎へと着く。新宿を出て、途中で異常確認のため少し停車したが、それでもあっという間だった。私のこの1年のようだ。すでに漆黒の闇に包まれた車窓からの景色を見ながら、なおも私は寂寥感を抱く。この気持ちが唯一不変のものではないことを祈りつつ、よくわからないこの文章を終えることにしよう。